大学入学共通テスト(地理歴史) 過去問
令和4年度(2022年度)追・再試験
問17 (世界史B(第4問) 問2)
問題文
A 次の資料1は、あるトルコ系の国家( ア )について述べた中国の史書の一節である。(引用文には、省略したり、改めたりしたところがある。)また、資料2は、( ア )と東ローマ帝国との間で行われた交渉について、東ローマ帝国の歴史家が残した記録の概略である。なお、資料1・2は、どちらも同じ世紀に起こった事柄について述べている。
資料1
( ア )は富強となり、中国を軽んずるようになった。北周は( ア )と和親を結び、毎年、十万段もの絹を贈った。北斉もまた、( ア )からの侵略を恐れ、宮中の倉にある限りの財物を贈った。( ア )の君主は、配下の者たちにこの状況を例えて言った。「我々に南方の二人の孝行息子がいる限り、何の憂いもない。」
資料2
568年の初め、( ア )の使節たちがコンスタンティノープルに到着した。この時、勢力が増大した( ア )に従属していたソグド人は、「ペルシアへ使節を派遣し、自分たちがペルシアで絹を売る許可を得て欲しい」と、アの君主ディザブロスに請願した。彼はこれを承諾してソグド人を使節として派遣した。ところが、ペルシア王は、彼らが領内で絹を売ることを許可しなかった。
そこでソグド人の首領マニアクは、ディザブロスに次のように進言した。「東ローマと友好関係を築き、彼らに絹を売る方が良い。彼らほど多くの絹を使う人たちはいないからである。」ディザブロスはこの提案に賛成し、マニアクほか数名を使者としてコンスタンティノープルの皇帝のもとに派遣した。マニアクたちは皇帝への挨拶と、高価な生糸の贈り物と手紙を携えていった。この結果、東ローマと( ア )との間に攻守同盟が結成された。
Aの資料2の、ソグド人に領内で絹を売ることを許可しなかった王朝の歴史について述べた文として最も適当なものを、次の選択肢のうちから一つ選べ。
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問題
大学入学共通テスト(地理歴史)試験 令和4年度(2022年度)追・再試験 問17(世界史B(第4問) 問2) (訂正依頼・報告はこちら)
A 次の資料1は、あるトルコ系の国家( ア )について述べた中国の史書の一節である。(引用文には、省略したり、改めたりしたところがある。)また、資料2は、( ア )と東ローマ帝国との間で行われた交渉について、東ローマ帝国の歴史家が残した記録の概略である。なお、資料1・2は、どちらも同じ世紀に起こった事柄について述べている。
資料1
( ア )は富強となり、中国を軽んずるようになった。北周は( ア )と和親を結び、毎年、十万段もの絹を贈った。北斉もまた、( ア )からの侵略を恐れ、宮中の倉にある限りの財物を贈った。( ア )の君主は、配下の者たちにこの状況を例えて言った。「我々に南方の二人の孝行息子がいる限り、何の憂いもない。」
資料2
568年の初め、( ア )の使節たちがコンスタンティノープルに到着した。この時、勢力が増大した( ア )に従属していたソグド人は、「ペルシアへ使節を派遣し、自分たちがペルシアで絹を売る許可を得て欲しい」と、アの君主ディザブロスに請願した。彼はこれを承諾してソグド人を使節として派遣した。ところが、ペルシア王は、彼らが領内で絹を売ることを許可しなかった。
そこでソグド人の首領マニアクは、ディザブロスに次のように進言した。「東ローマと友好関係を築き、彼らに絹を売る方が良い。彼らほど多くの絹を使う人たちはいないからである。」ディザブロスはこの提案に賛成し、マニアクほか数名を使者としてコンスタンティノープルの皇帝のもとに派遣した。マニアクたちは皇帝への挨拶と、高価な生糸の贈り物と手紙を携えていった。この結果、東ローマと( ア )との間に攻守同盟が結成された。
Aの資料2の、ソグド人に領内で絹を売ることを許可しなかった王朝の歴史について述べた文として最も適当なものを、次の選択肢のうちから一つ選べ。
- 『アヴェスター』が編纂(へんさん)された。
- アルダシール1世に滅ぼされた。
- パルティアに滅ぼされた。
- サーマーン朝を滅ぼした。
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この過去問の解説 (1件)
01
【資料2の整理】
・ソグド人たちはペルシア(=イラン地方)に行って、絹を売りたかった。
・だけど、そのペルシア王が販売を許さなかった。
・時代は6世紀後半(568年頃)
→ この時期、イラン地方を支配していた王朝はササン朝(224〜651年)です。
つまり、絹の売買を拒否したのは「ササン朝ペルシア」の王となります。
『アヴェスター』はササン朝にも関係しますが、直接この問題に適した出来事ではありません。
正しいです。パルティアはササン朝建国者アルダシール1世に滅ぼされました。【正解】
逆に、パルティアが滅ぼされたので誤りです。
サーマーン朝は9世紀以降の王朝であり、ササン朝とは時代が異なります。
6世紀後半、中央アジアからのソグド人商人たちは、ササン朝ペルシア領内での交易を試みましたが、ササン朝によって阻止されました。
ササン朝は3世紀前半、アルダシール1世によって建国され、パルティア(アルサケス朝)を滅ぼして成立しました。
ササン朝はシルクロードの中継貿易を独占しようとする政策をとり、突厥や東ローマとの交易を妨げようとしました。
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